あまりにも低俗であまりにも嘆かわしく
2011 11 29
沖縄防衛局長の発言に、またかという怒りがこみあげてくるのを抑えられないでいる。
田中なにがしの本音が、そのままむき出しになって表に出たということだろう。
というか、いまの日本という国の本音をぺろっと言ってしまったのだと思う。
社会的責任のある者としての自覚と責任など、みじんもない。
沖縄の人々はだまっていないだろうが、ヤマトの私たちは、またもや対岸の火事として
見過ごしてしまうのか。
沖縄がおかれた現実を、自分のものとして考えない温度差をどうしたらいいのか、いつも
答えを探している。
沖縄の友人たちの顔が浮かぶ。長年、沖縄に出かけてたくさんの知り合いができた。
人の心の暖かさや優しさ、社交辞令じゃない深い付き合いをするなかで、私は多くのこと
を学んだ。自分らしい生き方をみつけた。
亡くなったオバアは、私のことを「ウチナーヤマトンチュ」と言ってくれた。沖縄と親戚
になったようで嬉しかった。
大江健三郎は著書『沖縄ノート』のなかでこう言っている。
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることは
できないか、という命題をかかえこんでいる」
田中なにがしの本音が、そのままむき出しになって表に出たということだろう。
というか、いまの日本という国の本音をぺろっと言ってしまったのだと思う。
社会的責任のある者としての自覚と責任など、みじんもない。
沖縄の人々はだまっていないだろうが、ヤマトの私たちは、またもや対岸の火事として
見過ごしてしまうのか。
沖縄がおかれた現実を、自分のものとして考えない温度差をどうしたらいいのか、いつも
答えを探している。
沖縄の友人たちの顔が浮かぶ。長年、沖縄に出かけてたくさんの知り合いができた。
人の心の暖かさや優しさ、社交辞令じゃない深い付き合いをするなかで、私は多くのこと
を学んだ。自分らしい生き方をみつけた。
亡くなったオバアは、私のことを「ウチナーヤマトンチュ」と言ってくれた。沖縄と親戚
になったようで嬉しかった。
大江健三郎は著書『沖縄ノート』のなかでこう言っている。
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることは
できないか、という命題をかかえこんでいる」
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